タイトル


1232年
<語呂>一文(ひとふみ)に書いた御成敗式目
<出来事>御成敗式目(貞永式目)の制定。執権北条泰時によって定められた鎌倉幕府の基本法。「頼朝以来の先例と武家社会の道理」をもとにして51ケ条が定められた。武家による最初の成文法。

1247年
<語呂>一緒に死なんと三浦一族
<出来事>宝治合戦。北条時頼が三浦泰村一族を滅ぼした。

1249年
<語呂>一気に良くなる評定衆
<出来事>引付衆の設置。御家人の所領に関する訴訟を担当した。

1274年
<語呂>人になし、文永元寇襲来
<出来事>文永の役。元寇最初の事件。執権北条時宗を中心に戦ったが、元軍の集団戦法や火薬の使用に悩まされた。暴風雨に助けられ撃退した。

1279年
<語呂>一気になくなる南宋滅亡
<出来事>南宋の滅亡。

1281年
<語呂>いつ敗走、元の船
<出来事>弘安の役。2度目の元寇。再び暴風雨に助けられ元軍を撃退した。2度の元寇で、御家人竹崎季長(スエナガ)の活躍を描いたのが「蒙古襲来絵巻」である。

1285年
<語呂>人には強引、内管領
<出来事>霜月騒動。御内人(ミウチビト)の代表である内管領(ウチカンレイ)平頼綱が御家人の安達泰盛とその一族を滅ぼした事件。以後、内管領の専権が強まり、北条貞時の時代に得宗(トクソウ)専制支配が確立した。

1297年
<語呂>皮肉な永仁の徳政令
<出来事>永仁の徳政令。執権北条貞時が発布。御家人が御家人から借金をした場合は20年、非御家人から借金をした場合は期限を限らず、土地の無償取り戻しを認めた。

1317年
<語呂>いっさいなかった文保の和談
<出来事>文保の和談。大覚寺統、持明院統から交互に天皇を立てることを約束した(両統迭立)。

1324年
<語呂>秘密知る、正中の変
<出来事>正中の変。後醍醐天皇を中心に企てられた第1回目の討幕計画であるが途中で露見して失敗に終わった。日野資朝(スケトモ)は佐渡に流されたものの、後醍醐天皇は処分を免れた。

1331年
<語呂>父さん災難、元弘の変
<出来事>元弘の変。後醍醐天皇が企てた2度目の討幕計画。失敗して後醍醐天皇は隠岐に流された。鎌倉幕府は持明院統(ジミョウイントウ)の光厳(コウゴン)天皇を擁立した。

1333年
<語呂>一味散々、鎌倉滅亡
<出来事>鎌倉幕府が滅亡。事実上の最後の執権北条高時は鎌倉を新田義貞に攻められ自殺。鎌倉幕府は滅亡した。六波羅探題は足利高氏(のちの尊氏)に滅ぼされた。

1334年
<語呂>いざみよ、建武の新政
<出来事>建武の新政。後醍醐天皇による建武の新政は、旧来の天皇親政、恩賞が公家に厚く武士に少ないなどの理由で武士からの評判が悪かった。足利尊氏の反乱で3年足らずで崩壊した。

1335年
<語呂>いざ見事な中先代
<出来事>中先代の乱。北条高時の子である時行が鎌倉幕府の再興を図って起こした反乱。一時鎌倉を占領したが足利尊氏によって鎮圧された。

1336年
<語呂>いざ見ろ建武式目
<出来事>建武式目の制定。足利尊氏によって発せられた政治方針。

1336年
<語呂>いざ去ろう、吉野へ
<出来事>後醍醐天皇、吉野へ逃げる。京都の北朝に対して、吉野山中で南朝を開いた(南北朝の対立)。

1338年
<語呂>瞳さわやか、室町幕府
<出来事>室町幕府の成立。足利尊氏が光明天皇(持明院統)から征夷大将軍に任じられる。

1350年
<語呂>足利一味(13)が困る(50)観応の擾乱
<出来事>観応の擾乱。足利家の内紛に端を発し、全国に波及した動乱。高師直と足利直義との対立が表面化して、高師直が直義を引退させるのが1349年。そして1350年、直義派の面々が挙兵し実際に武力行使に入った。1351年、高師直一族を滅ぼして尊氏と和睦。その後、尊氏が1352年2月に直義を討伐。足掛け3年にわたるこれらの抗争を「観応の擾乱」と呼んでいる(教科書などでは、実際に武力行使にいたった1350年を観応の擾乱としている)。この観応の擾乱によって、軌道に乗りかけていた室町幕府の政権運営は頓挫し、風前の灯火であった南朝は息を吹き返した。

1378年
<語呂>花咲いた(8731)、花の御所
<出来事>花の御所を造営。花の御所は足利義満が造営した邸宅と幕府の総称。

1391年
<語呂>いざ悔いはなし明徳の乱
<出来事>明徳の乱。11か国の守護職を兼ね「六分一殿」と呼ばれた山名氏清を滅ぼす。3代将軍足利義満が将軍権力の強化を目指して有力守護大名の弱体化を図ったもの。

1392年
<語呂>いざ国統一南北朝
<出来事>南北朝合一。足利義満の斡旋により南朝の後亀山天皇が北朝の後小松天皇に譲位するという形式で統一された。以後は交互に天皇を出すことが定められたが守られなかった。

1399年
<語呂>秘策苦しむ大内軍
<出来事>応永の乱。守護大名の大内義弘が室町幕府に対して反乱を起こした事件。

1404年
<語呂>投資をしないで勘合貿易開始
<出来事>勘合貿易の開始。倭寇と区別するため勘合を利用した貿易を始めた。

1419年
<語呂>必死で行くぞ応永の外寇
<出来事>応永の外寇。対馬に倭寇が集結したとの情報を得た李氏朝鮮軍が対馬を襲撃した事件。「刀伊の入寇」からちょうど400年の年である。

1428年
<語呂>石には刻んだ徳政碑文
<出来事>正長の土一揆。近江の馬借(バシャク)の蜂起をきっかけに起こった土一揆。高利貸を営んでいた酒屋・土倉・寺院などを農民が襲った。奈良市柳生町の石仏の傍に碑文が残っている。

1429年
<語呂>いよ、にくいね。尚巴志
<出来事>琉球王国の統一。尚巴志が琉球の北山・中山・南山を統一。

1439年
<語呂>人の世裂く、永享の乱
<出来事>永享の乱。鎌倉公方の足利持氏と関東管領の上杉憲実の対立に際して、6代将軍足利義教が持氏討伐を命じた事件。上杉憲実が足利持氏を滅ぼした。

1441年
<語呂>人よ良いか、将軍殺しても
<出来事>嘉吉の乱。播磨国の守護赤松満祐(ミツスケ)が6代将軍足利義教(ヨシノリ)を謀殺した事件。その後、将軍の代替わりの徳政を求めて「嘉吉の土一揆」が起こった。

1467年
<語呂>人よむなしく応仁の乱
<出来事>応仁の乱(〜1477)。東軍の細川勝元と西軍の山名持豊(宗全)の対立に、将軍の継嗣と畠山、斯波家の家督争いが絡んでおこった大乱。以降、幕府の支配地は山城国のみとなり、幕府権威は失墜し戦国時代となる。

1485年
<語呂>石はご立派、山城国
<出来事>山城の国一揆(〜1492)。南山城の国人や土民が両畠山軍の退却、寺社本所領の還付、新関の廃止などを要求。8年間にわたって自治を行った。自治の中心となった寺院が平等院である。

1488年
<語呂>意地ははります一向一揆
<出来事>加賀の一向一揆。一向宗の宗徒たちが加賀の守護、富樫政親を自刃に追い込み、約百年間にわたって自治を行った。約百年後、織田信長は柴田勝家に攻めさせ、1580年に滅ぼされた。

1503年
<語呂>以後おさまる朝鮮の倭寇
<出来事>通信符による貿易開始。通信符(正式な貿易船の持つ証明書)による日本と朝鮮国(李朝)の貿易が開始された。

1510年
<語呂>以後遠のく日朝貿易
<出来事>三浦の乱。三浦(乃而浦(ナイジホ)・富山浦(フザンホ)・塩浦(エンポ))でおこった倭人居留民の暴動事件。この乱によって日朝間の交通はいったん中断された。

1523年
<語呂>以後積み込みは大内独占
<出来事>寧波の乱。大内氏と結ぶ博多商人と、細川氏と結ぶ堺商人が、勘合の真偽などを巡って寧波で争った紛争。これにより日明貿易は一時中断されたが、以降、大内氏が独占するようになった。

1536年
<語呂>以後見向きもされぬ日蓮宗
<出来事>天文法華の乱。天台宗比叡山延暦寺の僧兵や衆徒が京都の日蓮宗(法華宗)寺院を焼き払った事件。以後6年間、京都において日蓮宗は禁教となった。

1543年
<語呂>鉄砲伝来、一騎打ちは以後よさん。鉄砲は以後黄泉送り(如月さんの語呂)。鉄砲は以後予算がかさむ(如月さんの語呂)。鉄砲をいいご予算で作ります(たくやさんの語呂)。
<出来事>鉄砲伝来。種子島の島主、種子島時尭(トキタカ)がポルトガル人から鉄砲二丁を購入した。

1547年
<語呂>以後しなくなる勘合貿易
<出来事>最後の勘合貿易船を派遣。大内氏の滅亡と明の海禁政策により勘合貿易は廃止された。

1549年
<語呂>以後よく広まるキリスト教
<出来事>キリスト教の伝来。日本人アンジロー(弥次郎・弥二郎ともいう)の案内でスペイン人のイエズス会宣教師のフランシスコ=ザビエルによって鹿児島に伝えられた。

1560年
<語呂>銃後群れなす桶狭間
<出来事>桶狭間の戦い。織田信長が今川義元を破る。以後信長は全国統一に乗り出した。

1570年
<語呂>非業な例、姉川の戦い
<出来事>姉川の戦い。織田信長・徳川家康連合軍が浅井長政・朝倉義景連合軍を破る。

1571年
<語呂>人こない延暦寺
<出来事>比叡山延暦寺の焼き打ち。織田信長が浅井・朝倉軍と結ぶ延暦寺を焼き打ちする。

1573年
<語呂>以後涙の義昭追放
<出来事>室町幕府の滅亡。織田信長が自ら擁立した室町幕府の15代将軍足利義昭を追放し、室町幕府は滅亡した。

1575年
<語呂>人、粉々、長篠合戦
<出来事>長篠の戦い。三河国の長篠で信長、家康の連合軍が武田勝頼と戦う。信長軍の足軽・鉄砲隊が威力を発揮し武田の騎馬隊を大敗させた。武田氏はのちに天目山(テンモクザン)の戦いで滅亡する。

1577年
<語呂>以後なんなりと楽市楽座
<出来事>織田信長が安土城下に楽市の制を敷く。

1582年
<語呂>十五夜に本能寺で変
<出来事>天下統一を目前にした織田信長が家来の明智光秀によって京都の本能寺で討たれる(自害)。明智光秀は山崎の合戦で豊臣秀吉に敗れ、逃亡中に殺された(三日天下)。

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