タイトル


1582年
<語呂>以後は不運な明智光秀
<出来事>山崎の戦い。羽柴(豊臣)秀吉が明智光秀を破る。明秀は三日天下に終わる。

1582年
<語呂>十五夜に少年使節を派遣する
<出来事>天正遣欧使節の派遣。九州のキリシタン大名の大友義鎮、大村純忠、有馬晴信が宣教師ヴァリニャーニのすすめでローマ教皇(グレゴリウス13世)のもとに少年使節を派遣した。伊東マンショ、千々石ミゲル、中浦ジュリアン、原マルチノの4人。

1582年
<語呂>イチゴパンツで太閤検地
<出来事>太閤検地。「天正の石直し」ともいう。全国的規模で検地を行い、京桝(キョウマス)を定め、1段を300歩とし、土地の単位を石高に統一。この検地によって中世以来続いてきた荘園が完全に消滅した。

1583年
<語呂>以後はさんざん、賎ヶ岳の戦い
<出来事>賎ヶ岳の戦い。近江国の賤ヶ岳付近で行われた豊臣秀吉と柴田勝家の戦い。織田信長の死後の主導権をめぐっての争いで,この戦いでやぶれた勝家は越前北庄に逃れた。その後、秀吉軍に攻められて自殺。秀吉は全国統一の基盤を築くに至った。

1584年
<語呂>以後はしっかり手を結ぼう
<出来事>小牧・長久手の戦い。豊臣秀吉に通じる3老臣を斬った織田信雄が徳川家康と同盟を結び、秀吉と断交する。豊臣秀吉と徳川家康・織田信雄連合軍とが小牧で対峙。さらに長久手で合戦。その後、秀吉と信雄は和議を結んだ。

1587年
<語呂>以後はならんと宣教師追放
<出来事>バテレン追放令。九州平定の直後、豊臣秀吉によって博多で発令された。宣教師の20日以内の国外退去を命じたが、貿易は続けたので実効は少なかった。

1588年
<語呂>以後は刃物禁止
<出来事>刀狩令、海賊取締令。前者は百姓が刀などの武器を持つことを禁じた命令。これによって兵農分離が進んだ。後者は同日に発布した海賊鎮圧の命令。海賊の取り締まりは、その地の領主の責任とされ、倭寇は消滅した。

1590年
<語呂>戦国王、豊臣秀吉天下統一
<出来事>豊臣秀吉が全国を統一。四国、九州を平定後、秀吉は大軍で小田原城を包囲し北条氏政・氏直(ウジナオ)を降伏させた。

1591年
<語呂>以後悔い残る身分統制
<出来事>身分統制令。武士が百姓、町人になることや農民の転業を禁止した法令。身分制度の確立を意味する。

1592年
<語呂>異国に侵入、文禄の役
<出来事>文禄の役。最初の朝鮮出兵。秀吉は自ら肥前名護屋(ナゴヤ)で指揮をとった。日本軍は平壌まで進んだが明軍の来援もあり、停戦講和した。

1597年
<語呂>以後苦難が続く慶長の役
<出来事>慶長の役。二回目の朝鮮出兵。秀吉の病死を契機に撤退。2度にわたる朝鮮出兵の際、活字印刷術が伝来した。また多くの朝鮮人陶工が日本に連行され有田焼や薩摩焼などが始められた。

1600年
<語呂>人群れ押し掛け関ケ原
<出来事>関ヶ原の戦い。美濃国関ケ原で石田三成らの西軍が徳川家康の東軍と戦って敗北(天下分け目の合戦)。

1600年
<語呂>一路往復日本まで
<出来事>リーフデ号漂着。ロッテルダムの東方貿易会社の探検船リーフデ号が豊後臼杵湾に漂着。家康は乗組員のイギリス人ウイリアム・アダムズ(三浦按針)とオランダ人ヤン・ヨーステン(耶揚子)を外交顧問に迎えた。

1603年
<語呂>人群れさわぐ江戸幕府
<出来事>江戸幕府成立。徳川家康が征夷大将軍に任じられる。1867年の15代将軍徳川慶喜による大政奉還まで、約260年間にわたる江戸時代が始まる。

1604年
<語呂>色は白色、糸割符
<出来事>糸割符制度が始まる。糸割符仲間と呼ばれる特定の商人がポルトガル船の輸入生糸を一括購入し、その後、国内の商人に売却する制度。長崎・京都・堺の商人たちが独占的に生糸の価格を決定するため、ポルトガル側は大打撃を受けた。1655年に制度廃止。

1613年
<語呂>一路勇んで欧州へ
<出来事>慶長遣欧使節の派遣。仙台藩主伊達正宗がスペイン、ローマに派遣した使節。正使は支倉常長で、ルイス=ソテロを案内役としノビスバン(メキシコ)を経てイスパニアに赴き、さらにローマ法王に謁見。交易を目指したが失敗し1620年帰国した。

1614年
<語呂>ヒーロー意思弱く冬の陣
<出来事>大坂冬の陣。京都の方広寺の鐘銘問題(「国家安康、君臣豊楽」の文字が刻まれていた)をきっかけに起こった豊臣氏と徳川氏の戦い。大坂城の外堀を埋めるという内容でいったん和議を結んだ。

1615年
<語呂>ヒーロー以後出ず夏の陣
<出来事>大坂夏の陣。冬の陣の和議はすぐに破れ再び戦いが起こった。豊臣方は敗れ、淀君と豊臣秀頼母子は自刃。徳川氏の実権が名実ともに確立し、元和偃武(ゲンナエンブ)と呼ばれる天下泰平の時代が到来した。

1615年
<語呂>異論以後なし武家諸法度
<出来事>武家諸法度(元和令)の制定。江戸幕府の大名統制法。家康が臨済宗南禅寺の僧侶、金地院崇伝(スウデン)に起草させ、二代将軍秀忠の名で伏見城で発布した。違反には改易、転封、減封など厳しい処分を行った。

1615年
<語呂>異論以後なし禁中並公家諸法度
<出来事>禁中並公家諸法度。江戸幕府の朝廷・公家統制法であり、幕府が朝廷や公家の地位を確定した基本法である。武家諸法度と同じ金地院崇伝の起草。幕末まで改訂されなかった。

1616年
<語呂>いろいろ考え平戸と長崎
<出来事>ヨーロッパ船の来航地を平戸と長崎に制限。

1623年
<語呂>一路に去ったイギリス船
<出来事>イギリスが日本を退去。オランダとの貿易競争に敗れて自ら退去した。

1624年
<語呂>一路西向くスペイン船
<出来事>イスパニア(スペイン)の来航禁止。キリスト教の布教に熱心であったイスパニア(スペイン)は、この年来航が禁止され日本を去った。

1627年
<語呂>色に悩んだ紫衣事件
<出来事>紫衣事件。幕府が紫衣(紫色の法衣や袈裟)の授与を規制したにもかかわらず、後水尾天皇は従来の慣例通り、十数人の僧侶に紫衣着用の勅許を与えた。これにより幕府と朝廷が対立。結局、後水尾天皇は明正天皇に譲位。朝廷に同調していた沢庵和尚は出羽に流された。

1633年
<語呂>一路散々奉書船
<出来事>奉書船以外の海外渡航禁止。最初の鎖国令。朱印状と老中が発行する奉書を持つ奉書船以外の海外渡航、および海外居住5年以上のものの帰国を禁止した。

1635年
<語呂>異論見事に抑えて武家諸法度
<出来事>武家諸法度の改正(寛永令)。三代将軍家光が発令。起草したのは林羅山。参勤交代を制度化し、500石積以上の大船の建造を禁止した。

1635年
<語呂>一路(16)参(3)勤交(5)代へ
<出来事>参勤交代を制度化。幕府の大名統制の制度で、諸大名を江戸に一定期間交代で参勤させた。妻子は人質代わりに江戸住まいとした。江戸・国元の往復や二重生活のために多大な出費が必要となり、諸藩の財政は困窮する。一方、幕府は統制力を強めた。

1635年
<語呂>異論見事に抑えて帰国を禁止
<出来事>日本人の海外渡航・帰国を全面禁止。

1637年
<語呂>一路みんなで島原へ
<出来事>島原の乱(〜1638)。九州の島原、天草地方を中心にキリシタンが反乱。天草領主の寺沢氏、島原領主の松倉氏の圧政に反抗し、天草四郎時貞を総大将に原城にたてこもった。オランダ船の援護を得て、老中松平信綱が鎮圧した。

1639年
<語呂>人、むさ苦しい鎖国の完成
<出来事>ポルトガル船の来航禁止。これによって鎖国が完成。以降、長崎では出島を通じてオランダ、清とのみ貿易を行う。

1641年
<語呂>いろよい返事で出島に移る
<出来事>オランダ人を出島に移す。平戸にあったオランダ商館を長崎の出島に移し、出島を通じてのみ貿易を行った。オランダからは毎年外国情勢を記した「オランダ風説書」が幕府に提出された。オランダ商館長を甲比丹(カピタン)と呼ぶ。

1643年
<語呂>一番無視された田畑永代売買禁止令
<出来事>田畑永代売買禁止令。富農への土地の集中と本百姓体制の維持のために発布されたが、質入れという手段が利用され形骸化した。明治維新後の1872年まで続いた。

1649年
<語呂>一郎よく聞け御触書。人、村よく聞けお触書(たくやさんの語呂)。
<出来事>慶安の御触書。三代将軍家光が農民統制のために出した法令。農業を奨励するとともに、衣食住の制限など農民の生活の細部まで干渉した。

1651年
<語呂>一番むごい正雪の乱
<出来事>由井正雪の乱。慶安の変とも呼ばれる。兵学者の由井正雪が牢人の丸橋忠弥らと企てた反乱未遂事件。事件の後、幕府はそれまでの武断政治から文治政治に転換し、牢人の発生を少なくするようになった。

1657年
<語呂>疲労・御難の明暦の大火
<出来事>明暦の大火。振り袖火事とも呼ばれる。江戸本郷の日蓮宗本妙寺が火元。江戸城も類焼し全市の55%が焼けた。明暦の大火の犠牲者を供養したのが回向院である。

1672年
<語呂>いろんな荷物を西廻り
<出来事>西廻り航路が開かれる。河村瑞賢が西廻り航路・東廻り航路を開く。西廻り航路の船は北前船、東廻り航路の船は松前船と呼ぶ。

1673年
<語呂>一郎涙、分地制限
<出来事>分地制限令。農民所有の土地の分割を制限する法令。分地による農民の零細化を防止し、封建体制を維持するために出された。この年の分地制限令では名主は20石、一般百姓は10石以下になる分地を認めなかった。

1685年
<語呂>いむ(いぬ)は5代のお気に入り(ピエロさんの語呂)。犬をいじめる人(1)、牢屋(68)へゴー(5) (ミキさんの語呂)。犬は御免だ([い][ぬ][は][ご]めんだ)(まさたけさんの語呂)。色々厄介五代将軍(Riyoさんの語呂)。ワンコむやみゴロゴロ生類憐みの令(のんちゃんさんの語呂)
<出来事>生類憐みの令。五代将軍綱吉による極端な動物愛護令。綱吉は子に恵まれず、子を授かるため戌年生まれにちなんで特に犬を大事にした。護持院の僧隆光(リュウコウ)のすすめによる。1709年廃止。

1709年
<語呂>フィナーレ苦労の新井白石(太陽がさんさん)。非難、苦背負っとく[しょっとく→正徳]新井白石(0は頑張って覚える)(ピエロさん)。人(1)慣れ(70)苦(9)るしむ正徳の治(ミキさん)。人(1)な(7)らぶ奥(09)には新井白石(ミキさん)
<出来事>新井白石の正徳の治。六代家宣、七代家継に仕えた朱子学者、新井白石によって文治政治が行われた。(1)貨幣の質を改善、(2)長崎貿易の制限(海舶互市新令)、(3)朝鮮使節の待遇簡素化、(4)閑院宮家の創設、(5)将軍を「日本国王」と呼称など。

1716年
<語呂>非難いろいろ享保の改革
<出来事>享保の改革の開始。八代将軍吉宗の幕政改革。(1)新田開発、(2)上米の制、(3)足高の制、(4)年貢率引き上げ(定免法)、(5)質流し禁令、(6)相対済し令、(7)公事方御定書、(8)目安箱の設置、(9)大岡忠相の町奉行への登用など。「米将軍」と呼ばれた。

1732年
<語呂>人並みにお米食べたい享保の大飢饉
<出来事>享保の大飢饉。江戸三大飢饉(享保の大飢饉・天明の大飢饉・天保の大飢饉)のひとつ。

1742年
<語呂>人でなしに怒る忠相、公事方御定書。非難世に正す(大岡忠相の‘ただ’)法典、御定書(1+7=8、4x2=8、2つとも8代将軍の8になる)(ピエロさんの語呂)
<出来事>公事方御定書の制定。八代将軍吉宗の時代に大岡忠相(タダスケ)らが編さんした刑事、行政関係の法典。上下2巻に分かれ、特に下巻は刑事、刑事訴訟関係で103条あり「御定書百箇条」という。

1758年
<語呂>いな、御法度、尊王講義
<出来事>宝暦事件。学者の竹内式部が桃園天皇に尊王論を講義した事件。京都所司代は関係した公家を処分。竹内式部は追放された。

1767年
<語呂>非難胸騒ぎの山県大弐
<出来事>明和事件。尊王思想を説いた山県大弐、「宝暦事件」に連座し江戸攻略の軍法を説いた藤井右門が捕縛され処刑された。

1767年
<語呂>非難むなしい側用人
<出来事>田沼意次、側用人となる。側用人は将軍の側近であり,老中や若年寄の伺い・上申を取り次ぎ,その可否を献議する。家柄によらず,才能に応じて登用され,権勢を振るって幕政を左右した。

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